ニラレバが先かレバニラが先か

ちょっと笑ってもらえるように努力した記事も、真面目な記事もあるかもしれません。

アメリカ人的発想

 私がアメリカ人的発想という言葉を聞いたのはテスラについて調べた時のことです。

 彼は当時電力戦争において敵対していたエジソンを批判して「彼はアメリカ人的発想で発明している。」と言ったそうです。

 

 まぁそこから詳しい話を調べたわけではないんですが、何となくエジソンとテスラを見比べてみると言いたいことはわかる気がします。

 

 エジソンは電力の供給においてテスラと争ったときに象などの動物に実際に交流電流を流して殺しています。電力戦争の結果は皆さん知っての通り交流、つまりテスラ側の勝利に終わっています。

 エジソンが電球という概念を普及させたのちに電力の主導権を直流で握ろうとしたのは直流のほうが扱いが楽だったからのはず。テスラは交流の方が効率などの点において直流に勝っているということを宣伝してみごと電力の形を決めました。

 

 このように何かをするときに理論的かどうかというのがテスラの言う「アメリカ人的発想」の基準なんだと思います。

 感覚的に動いたのがエジソン。理論的に動いたのがテスラ。歴史を見ているとそんな気にもさせられます。

 

 エジソンが電球を作ったとか言われていますが、最初の電球を作ったのは確か違うお方です。

 なぜエジソンの方が有名になったのかというのもこの感覚的に生きたことにあるのかもしれません。感覚で動いたからその分大胆で自分をうまく売ることができた。

 

 個人的にはエジソンよりテスラのほうが優秀な人で、現代を作っているといえるのではと思っています。私がブログを打っているパソコンも、テレビ、スマホの充電も交流が優秀だったから一般人が手にできていると思うからです。

 

 

 さて、最近私が感じることがこのアメリカ人的発想に由来している。数学や理科を知りたくて理系を志したが、昔からその手の才能を自分から感じることができない。

 

 まぁ英語もできないから文系の才も感じたことはないのだが。

 

 物理の証明を先生から教わる際に、多くの人は式で教わる。光の干渉なんかはわかりやすい例だろう。

 でも、光の干渉などの証明の式を見ても私は「それが何になるのか?」と考える。結局は具体例で教えてもらったほうが理解できる。

 

 理系に向いた人間というのはここが違うと思う。具体例とか現実に・実際にどうなるかとかはどうでも良くて、式が成り立っているというのが大切だと思うのだろう。

 数学を志す人を見ると前に行ったことが理解しやすいだろう。彼らにそれが何になるのかを聞くのは愚問で、彼らは式を作ることに邁進しており数字はその道具・数式はそのまま答えになる。

 そう考えると物理は理系よりの文系と理系の融合分野といえるので、理系を志すには入り口になりやすいのかもしれない。

 

 そこで理系をここ志しても向いているかどうかは難しい質問である。数学を理解してそのまま理系に進めるのか、やっとのことで向いていないことに気づくのか。

 理系を称して歴史を調べている私は後者に値するのだろう。